890『世界の歴史と世界市民』ロシア
現在のロシア人につながる人々は、古代には、北東ルーシ呼ばれる地域に居住していたとされる。その後は、ノルマン人がこの辺りにやって来て、この地域に居住のスラブ人らを支配し、862年には、ノウゴロド公国を建国する。
その後はキエフ大公国としてあったのが、通称「キエフルーシ「として栄えていく。ここに「キエフ・ルーシ」のルーシというのは、ドニエプル川中流域を中心に形成された9世紀頃(一説には、882年とされるものの、伝説的でもある)におけるスラブ族の最初の国家名称とされ、12世紀初めまでは,首都キエフの名にちなみ、キエフ・ルーシ(キエフ大公国、キエフ・ロシア)と呼ばれる。
その領域としては、現在のロシア西部、ベラルーシ、ウクライナといった辺りをいう。988年には、キリスト教を国教とする、これが後のロシア正教に繋がっていく。
その領域としては、現在のロシア西部、ベラルーシ、ウクライナといった辺りをいう。988年には、キリスト教を国教とする、これが後のロシア正教に繋がっていく。
ところが、1207年には、モンゴル軍の侵攻があり、「モンゴル・タタールの軛」(注)と呼ばれる圧政になる。その中で、1472年には、モスクワ大公国のイヴァン3世が「全ルーシの君主」と宣言する、次いで1480年には、モスクワ公国が事実上独立し、領土を広げていく過程で、モンゴル支配を脱していく。
(注)ここに「タタールとは、本来モンゴル人とは人種・言語・宗教を異とするダッタン人のことである。しかしキプチャク・ハン国で両者の混血が進み、タタールのイスラムが国教とされて、文化的にも双方間で混交が行われたため、ロシアではモンゴル人のことをタタールと呼んだ。」(加藤雅彦「ヨーロッパの王朝」河出書房新社、2005)
(注)ここに「タタールとは、本来モンゴル人とは人種・言語・宗教を異とするダッタン人のことである。しかしキプチャク・ハン国で両者の混血が進み、タタールのイスラムが国教とされて、文化的にも双方間で混交が行われたため、ロシアではモンゴル人のことをタタールと呼んだ。」(加藤雅彦「ヨーロッパの王朝」河出書房新社、2005)
1613年には、ロマノフ王朝が成立する。それにいたるまでには、次の経緯があった。すなわち、1380年には、モスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ大公は、諸侯国の連合軍を率いて、モスクワ南方のキリコヴォの戦いてタタール軍に勝利する。また1480年には、イワン3世がタタールへの忠誠を翻すに至る。さらにその孫のイワン4世は、1547年、クレムリンで「全ロシアのツァーリ(皇帝)」となる。その、彼が1574年に死去すると、弟がフョードル1世として即位するのだが、こちらが1598年に世継ぎなしに亡くなってからは、動乱がつづく。ようやく空位時代が終わるのが、1613年のミハイル・ロマノフによるローマ王朝の登場によってである。その後、こちらの王朝による治世を際立たせるのが、有名な、1682年に即位したピヨートル1世(大帝)その人である。
およそこのような流れにて、18世紀前半には、ピョートル大帝が出て近代化を進め、領土を極東まで拡大させ、ロシア帝国となる。1861年からは、農奴解放が行われる。資本主義が確立されていく。
およそこのような流れにて、18世紀前半には、ピョートル大帝が出て近代化を進め、領土を極東まで拡大させ、ロシア帝国となる。1861年からは、農奴解放が行われる。資本主義が確立されていく。
1904~1905年の日露戦争の敗北でで体制を変えようと革命運動が高揚する、そして、1905年1月9日には、血の日曜日事件が起こる。この事件だが、司祭ガボンに率いられた10万ともいわれる労働者とその家族が、待遇改善に憲法制定議会の召集などの政治要求を記す請願書を皇帝に渡すべく、キリスト教でいうイコンを掲げてデモを行う。これに対し軍隊が発砲し、数百人の死者が出たとされる。5月には最初のソヴィエトが組織され、労働者と農民らのストライキを含む抵抗が続く中、皇帝側は「10月詔書」を出して、1906年4月には最初の国会が召集、次いで新たに内相ストルイピンを首相に据えて民主・革命勢力の懐柔を図るという展開にて国会解散を繰り返し、第四次の国会に漕ぎ着ける過程で、ようやく事態の沈静化を迎え、かくて血の日曜日から始まった第一革命もようやくここに終わる。
1917年2月(旧暦)には、ロマノフ王朝に代わり、臨時政府が成立する。同年の10月(旧暦)
には、レーニンの指導する社会主義革命が起こる。1917年2月(旧暦)には、ロマノフ王朝に代わり、臨時政府が成立する。同年の10月(旧暦)
この機に乗じ列強に領土干渉を受けるものの、1918~1920年には内戦を戦う。1922年には、ソ連が構成される。1924年には、レーニンが死去する。それまでは、新経済政策(ネップ)により経済を活性化をさせる。
レーニン後にトップとなったスターリンは、産業集団化を進める。やがて、ヒトラーがドイツで政権を握ると、ソ連に攻め込んでくる。「大祖国戦争」を戦う。ドイツ軍を、多大な犠牲の上に破る。
第二次世界大戦後は、超大国化していく。1953年のスターリンの死の後は、フルシチョフが指導者になる、1956年には、スターリン批判か行われる。1964年には、フルシチョフ体制が、かれの失脚で終わる。その後は、長いブレジネフ体制下で、経済が停滞していく。1960年代のコスイギン改革は、徹底されなかった、その、ため経済改革は半ばで停滞から衰退へ。1979年には、アフガニスタン政府の要請により、軍事介入、しかし、泥沼へ。1989年には、撤退。
1985年には、ゴルバチョフが書記長になり、共産党と国家が経済建て直しをするべくペレストロイカを始める。しかし、うまくいかない。1990年には、大統領制へ。経済改革はますますうまくいかない、経済は全体的に失速していく。1990年には、大統領制へ。1991年には、エリツィンがろしあ共和国大統領選挙で勝利。1991年には、エリツィンがろしあ共和国大統領選挙で勝利。同年。コメコンが解体になり、42年の歴史に幕。ワルシャワ条約機構も、36年の歴史に幕。その同じ1991年8月には、保守派によるクーデターの失敗。
その背景については、一説には、次のように語られている。
「91年8月、ゴルバチョフ、エリツィンらが同意した新連邦条約案が明らかになった。それは連邦が共和国側に大幅に譲歩したものとなっていた。連邦が風前の灯(ともしび)となったと感じた共産党保守派は、条約調印予定日前日の8月19日、ゴルバチョフの追い落としをはかった。保守派はペレストロイカ自体に反対していたわけではないが、経済の破綻、何よりも党独裁体制の否定から生じた政治的分極化と混乱、また社会秩序の崩壊状況に危機感を抱いており、最後の砦ともいうべき連邦制の崩壊の危機を前に決起したのてある。クーデターはエリツィン率いる共和国政府とモスクワ市民の抵抗によってあっけなく失敗し、エリツィンはその直後、共産党の活動を一時停止させる大統領令をだした。職務に復帰したゴルバチョフも党書記長を辞任し、共産党は結局、同年11月エリツィン大統領令で解散を余儀なくされた。」(栗生沢猛夫「図説ロシアの歴史」河出書房新社、2010)
その後は、ソ連の解体、社会主義体制の崩壊へとへと解散へと一気に進んでいく。同年の9月には、バルト3国の独立を承認する。12月には、ゴルバチョフ大統領が辞任する。同月には、ソ連を構成していた11か国がCIS(独立国家共同体)を創設する(アゼルバイジャンは1993年に批准、ジョージアは2009年8月に脱退、また、トルクメニスタンは2005年準加盟国に)。そして迎えた1992年には、国名をロシア共和国からロシア連邦と改める。
2000年のロシアでは、5月にプーチン大統領が就任する。2002年には、モスクワ劇場占拠事件が起こる。2003年には、ホドルコフスキー事件が起こる。イラクでは、イラクが大量破壊兵器を保有しているとアメリカがみなし、アメリカ主導のイラク戦争が断行される。そのためイラク政府(フセイン政権)が武力で倒された、その後に、この情報は誤っていたとアメリカ政府が認めた。
2004年には、プーチン大統領が再選される。この年には、ベスラン学校占拠事件が勃発する。2006年には、ロシアで「G8」(ロシアを入れた先進8か国)首脳会議が開かれる。2008年には、メドベージェフ大統領とプーチン首相のタンデム体制となる。この年の8月には、ロシア・ジョージア戦争が勃発する。
2010年には、アメリカとロシアとの間で新STATが調印となる。2012年には、プーチン首相が、大統領に復帰する。ウラジオストクでAPEC会議が開かれる。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆